法改正に対応しなかった子育て
昨日の日記を書いたあと、ジェットコースターの事故のニュースを知りました。また、点検の不備が原因で乗客を死なせたといいます。連休という遊園地が忙しくなる時期に備え、どうして点検を行なわなかったのか、腹立たしい限りです。
さて、本題に入ります。
自閉症は、かつては、育て方のせいで生じた障碍であるといわれてきましたが、今ではそれは否定されていることになっています。なぜ?
同じ地域や社会にいるこども、あるいは似通った知的IQをもつ人の間においては、こどもが発達障碍であろうが定型発達であろうが、親の育て方の違いに大きな差がありませんでした。
才能豊かでありながら発達障碍のある人が、この日本社会でうまく世渡りできなかった根拠、それは、地域社会で行なわれている子育てが、依然として昔ながらの経験則で、公然と行なわれていたことによると言えます。
成長期のこどもをかかえている親や、進路を考える年頃の本人は、将来のことについて、すごく悩んでいると思います。
この悩んでいる原因こそが、憲法22条1項の条文に記された職業選択の自由というものにあります。
子育てにおいて、小さなこどもの自我を押さえつけることが、家族・社会との調和を保っていく一番よいやり方であるという考えがあります。これは、身分制の時代には都合が良かったのですが、職業をある程度選べる社会状況では、あまり好ましいものではないようです。
こどもがしばしば親の価値観をそのまま引きずっているように見えるのは、この考えが根底にあると思います。それが、10代半ばには、これまでとは人格が変わったようになることがあります。
発達障碍で内気なワタシは2,3歳ごろは自己主張が乏しく、こどもの頃は、それでもなんとか周囲となじめましたが(大人の言いなりだったところが、まじめであると認識されました。)、
ほかの同級生の人格が変わっていく中、
そとの社会に接点をもたなかったので、心はほかの同世代から離れていったような気がします。
この、人格が変わっていることに、ワタシが気づきませんでした。保育園のときから一緒にいる同級生は、同じものだと考えていたのです。
しかし、自我を押さえつける子育てを受けた子らですので、ここにきて一斉に主張を示したように見えます。ワタシは社会経験を積まなかったため、精神的にはまだまだ小さなこどものようでした。
憲法の条文にあるように、将来の仕事をある程度選べるので、主張がない場合、損する方法を選んでしまいがちです。
結果、何を選べばよいか途方に暮れて、何もやらなくていいような手段を選んだことがあります。
個性を出せ、とはいうけれど、小さいこどもの頃の主張をないがしろにする職業選択の自由って、何か違うと思います。